北海道喉頭摘出者福祉団体 北鈴会

西澤医師-3


「聴覚と音声の生理学シリーズ」

第3章 呼吸の生理学



前回までに、音とは何か、声の出るしくみ何かとは、という主題で書かせていただきました。今回は、呼吸をする仕組みについて考えてみたいと思います。

私たちは、無意識のうちに、息を吸ったり吐いたりして生きています。体内へ空気を取り込む入り口は、多くは口、あるいは鼻ですが、喉頭摘出をされた方は、気管口から空気を出し入れするようになっています。

ちなみに、健常な場合は、口は、気流の出入り口であると同時に、食べ物の出入り口でもあるわけで、喉頭は、食べ物と空気の道筋が混ざらないように、空気は肺へ、食べ物や唾液は食道へ、と仕分けをする器官でもあります。喉頭摘出においては、喉頭の仕分け機能が廃絶されてしまうために、食物と空気の混線が起こり、食物が気道に入って、肺炎などを起こさないように、口からは食べるだけ、呼吸は、永久気管口を通じて行う、というふうに交通整理をしてしまいます。これを「気道食道分離」といいます。

さて、喉頭発声者でも、無喉頭発声者でも、呼吸の仕組みは変わりません。呼吸をすると言うことは、肺を膨らましたり萎めたりすることです。

肺という臓器は、心臓と違って、自分で縮んだりのびたりする機能を持ちません。肺は、肋骨で組まれた籠(胸郭)の中に入った、スポンジの様なもので、肺を膨らませる、縮ませるということは、実は、胸郭の容積を広げたり縮めたりすることに等しいのです。呼吸をするための筋肉を、呼気筋、吸気筋といいます。呼気筋は、胸郭の内容積を縮め、肺から空気を押し出す役目をします。吸気筋は、胸郭の内容を広げ、肺に空気を取り込む役目をします。

人間の呼気筋、吸気筋の運動は、大きく二つに分けられます。一つは、肋骨を引き上げたり引き下げたりして、胸郭の枠組みを、外側から広げたり縮めたりする筋肉です。肋間筋や上肢帯につく筋肉がこれに当たります。もう一つは、横隔膜を上下させることで、胸郭の底面を胸腔に向かって持ち上げたり引き下げたりすることで、胸郭の容積を調節する筋肉です。腹筋が緊張すると、腹圧が上がって、横隔膜が持ち上がり、
胸郭の容積は小さくなります。一方、横隔膜を構成する横隔腹筋が緊張すると、横隔膜は下へ下がり、胸腔の容積は広がります。腹筋は呼気筋、横隔膜筋は吸気筋というわけです。(呼気筋吸気筋の働き)

私たちが、安静にして、軽く息をしているときの呼吸運動の状態はどうなっているか考えてみます。(諸肺容量)息を吐いた状態で、すべての呼吸筋がリラックスしています(安静呼気位)。軽く息を吸うためには、外肋間筋という筋肉を使って、肋骨をちょっと引き上げます。胸郭の前後径が広がり、少しだけ、肺に空気が入ります。息を吐くときは、ことさらに呼気筋を動かすのではなく、肋骨を持ち上げていた外肋間筋の力を緩めるだけで、肋骨は自分の重みで下向きに下がり、胸郭が狭くなった分だけ息が出ます。

深呼吸というのは、肺活量のすべてを使ってがんばって呼吸をすることです。息を吸うときには、胸郭の拡大の他に、横隔膜筋が動員され、肺をいっぱいまで膨らまします。吐くときには、横隔膜筋、外肋間筋をゆるめるばかりか、安静呼気位を超えてさらに、内肋間筋による肋骨の引き下げ、さらに、腹筋による胸郭底面の押し上げによって、肺内の空気をぎりぎりまではき出します。

発声をしているときの呼吸はどうなっているでしょうか。喉頭発声は、振動部は細い粘膜の隙間であり、ここに一定の速さで安定した気流が通ることが大切です。気流の強さは、大きすぎても小さすぎてもいけません。仮に肺活量全部を使って、長い発声をしようとすると、まず、最大吸気まで、息を吸い込みますが、この後、あまり急に呼気が起こってはいけないので、肋骨の重みにブレーキをかけるために、呼気筋ではなく、吸気筋である外肋間筋が、少しだけ働いて、肋骨の動きを調節したりします。また、安静呼気位から、腹筋を使ってさらに呼気をつづけてゆくときにも、急な収縮は起こらず、徐々に腹筋の力を強めて行く、等という調節が働きます。

食道音声では、上部食道内に取り入れた空気を、胸郭内の陽圧によって逆流させて声を出すのです。胸郭内に陽圧を作る、ということは、要するに呼気を行うということです。呼吸に関する調節の機構を考え直してみると、胸腔内圧を高めるにしても、胸郭運動と腹圧の関係をどうするか、呼気筋と吸気筋のバランスをどうするか、変化のスピードをどうするか、そのやり方にはさまざまなバリエーションがあることが分かります。食道音声の熟練者と初心者で、発声時の呼吸を比べてみると、熟練者では、気管から出る呼気はごく少なく、食道から十分な空気が押し出されて、効率のよい発声が行われていますが、初心者では、気管から出る呼気の雑音が大きく、がんばって呼気努力をしている割には、食道から吐出される空気の量はあまり多くなっていないことが多いです。

指導員の方たちは、食道音声に使う呼気の方法を「腹式呼吸」とよばれることがあります。おそらく、食道音声で空気を押し出すため胸腔内圧を上げるためには、胸郭の上下運動を行うより、腹圧を上手に使った方が安定する、という意味ではないかと思うのですが、実際に「腹式呼吸」とよばれる呼吸法が、どの筋肉をどのようなバランスで使っているのか、については、私どもの方でもなかなかはっきりした説は定まっておりません。

(呼気筋吸気筋の働き)
※呼気では、胸骨(黒太線)に付着した肋骨からなる胸郭の枠組みが引き下げられ、胸腔内が狭くなるとともに、
 腹筋の働きで腹圧が上がり、弛緩した横隔膜は、胸腔内へ押し上げられる。
※吸気では、胸郭の枠組みが引き上げられ、胸腔が広くなるとともに、横隔膜は緊張し、胸腔の底面を引き下げる。
 腹筋は弛緩しており、腹圧は腹壁を膨らませる。
※呼気吸気でどの筋肉がどのような割合で働くかは、それぞれの呼吸のモードによって異なる。「腹式呼吸」といわれ ている呼吸は、胸郭が割と下降した位置にあり、胸腔の容積変化は、主に横隔膜と腹筋のバランスによって行われる ものを指すと考えられる。

(諸肺容量)
@安静呼吸では、吸気の始めに胸郭を少しだけ持ち上げ、呼気では、吸気筋の力を抜くことで、引き上げられた胸郭  が、安静呼気位にまで戻るという動作を繰り返して浅い呼吸を行っている。
A深呼吸では、すべての吸気筋が最大限に活動して、肺活量一杯の吸気を行う。呼気では、安静呼気位を超え、
 腹筋によって胸腔の底面を押し上げて、深い呼気を行う。
B長い発声時の呼吸。一定した速さで呼気を振動部に送らなければいけないので、呼気のはじめには、吸気筋が呼気運 動にブレーキをかけるような調節も行われる。