北海道喉頭摘出者福祉団体 北鈴会

札幌医大31


「個々が悪いのか?環境が悪いのか?」


札幌医科大学医学部耳鼻咽喉科

教授 氷見徹夫



北鈴会の皆様、いつも手術後の会員の方々をご指導いただきありがとうございます。また、日ごろの訓練でより多くの成果が得られますよう祈念いたしております。

いつも思うことですが、生命科学の進歩は目を見張るものがあります。分子レベルで物事を理解しようとする手法は、今でもいろいろな分野で応用されています。しかし、分子は目で見えませんから、一般の研究者にとっては、体の中のいろいろな細胞がどのような状態で存在し、機能しているかを「目で見て」理解したいと常に思っていました。

以前は顕微鏡写真といえば、細織を取り出して「薄く切り」、顕微鏡で細胞などの様子を観察するのが主流でした。止まっている細胞同志の状態を観察することはできますが、実際の生体での「細胞の動き」を観察することはできませんでした。近年、「二光子励起レーザー顕微鏡」という物々しい名前の顕微鏡が開発されました。この顕微鏡を用いると、細織の深部からの蛍光像をとらえることができ、生きたままの組織を用いて、「生きた細胞の動き」を観察できるため、今まで分からなかった体の中でのいろいろな細胞の動きがわかってきました。たとえば免疫細胞が組織の中で他の免疫細胞と、くっついたり離れたりしながら、独自の免疫細胞として機能していることがわかってきました。この研究手法から、今まで思いつかなかった「異なった細胞と群れを作ること」の重要性が提唱されてきました。

普通の細胞が変異を起こして「たちの悪い」癌細胞になるにはいろいろな要素がありますが、どれが重要なのかまだ分かっていません。しかし、がん細胞の育つ環境の重要性は以前から言われており、この「異なった細胞と群れること」も重要な環境要素と考えられています。

がん細胞は体のある場所にとどまっていれば、悪性腫瘍と呼ばれることはありません。がん細胞が生まれて増殖し塊を作るだけでなく、そこから他の場所へ「動く」、すなわち「転移」するから「悪性腫瘍」となるのです。前述した顕微鏡の開発などで、「細胞の動き」をよく観察すると、がん細胞が転移し始めるためには、「がん細胞でない細胞と群れを作ること」が重要であることがわかりました。

実際のがんの塊にはがん細胞以外の細胞もたくさん含まれています。この「がん細胞以外の細胞」と群れることで癌細胞が育つ環境を作り、さらに、より「たちの悪い」がん細胞を作り出すというのです。そして、そのより悪性化した一部のがん細胞が異常な動きを獲得して転移が始まるという考え方です。つまり、突然変異したがん細胞だけでは「悪性腫瘍」には育たず、がん細胞の周りの細胞の影響でより悪性化するというものです。もっとやさしく言えば「環境が悪いとワルが育つ」という考えです。

単なる理論とお思いかもしれませんが、治療戦略を立てるためには重要な理論です。つまり、がん全体を壊滅させるのではなく、一部のより悪性化した小さな集団を撲滅すればがんが治る、という理論が従来から提唱されています。しかし、もう一つの考え方として、がん細胞自体を叩き潰さなくとも、周辺の「群れを作っているがん細胞以外の細胞」の性質を解析して、環境を整えてあげれば悪性化が減弱、ひいては転移を防げるという考えがこの理論から生まれてきました。実際に、このような理論をもとに様々な新しい手法が考えられているところです。

それにしても、がん組織も社会の縮図に似ているような気がします。「世の中をよくするにはまず何をしたらよいか?」という命題に、「極めつきのワルを捕まえるのが先だ」という考えと「ワルが育つような環境をなくすことが先決だ」のどちらを選択するかという議論に似ているような気がします。もちろん、がん治療もそうですが、その両方を同時に行えるのが理想ですが…。