北海道喉頭摘出者福祉団体 北鈴会

宿泊発声訓練34


宿泊発声訓練の今昔


事務局長  土田 勝則

【第32号】平成27年

 昨年の9月で平成4年から始めた宿泊訓練が節目の100回を迎えました。年間5回の開催ですから20年掛かった事に成ります。

 20数年前に時計を戻しますと、その頃、宿泊訓練を行っていたのは日本中で宮城県仙台市の「立声会」一ケ所だけでした。

 私が昭和61年11月に初めて「立声会」に行った時、宮城県内は、もとより東北他県からの受講生も来ていました。日程は水曜日の午後から始まり月曜日の午前中までの5泊6日で毎月の開催で参加費用は2万5千円位だったと思います。当時指導員は6名おられ食道発声だけの指導でした。

 初回の人と初級者でまだ原音が出ない人は録音室と言う別室での個別指導です。広瀬校長という「恐くて涙脆い熱血漢」の名物先生がVTR等を駆使して舌の状態、喉の上下の動き具合、口の開き等、映像を本人に見せ確認させながらの指導をしていました。私はと言いますと、11月から連続して翌年3月まで5回行きましたが、全く原音の「ア」が出ませんでした。今思うとその発声法は咽頭発声又は口腔囁語と言われるもので「カッ……」としか出せません。見かねた広瀬校長に連れられて仙台の病院でファイバースコープ検査を受けました。その結果、舌根部が下咽頭部の空間を塞ぎ空気が取り込めず振動を伴った原音が出せないとの事、舌根部が前方に出るには時間が必要なので取りあえず電気発声で声を創られたら如何でしょうか……、とのアドバイスでした。

 その後3年間、自宅と職場での休憩時間に誰もいない非常階段を利用して「ア」の練習を繰り返し、ある程度自分で納得の行く原音が出て来たので平成2年再度「立声会」にお世話に成り会話の修得に向って練習努力しました。

 手術を受けてから4年近く過ぎた私は札幌教室で電気発声の指導員に成っていました。ある時の役員会で「北鈴会」にも「立声会」の様な宿泊訓練を行う事が出来ないでしょうか?との提案をしました。

 何故かと言いますと当時は今の様に航空機の早割チケットもありませんので飛行機代、受講料、家族・職場へのお土産代で1回行くと8〜9万は必要でしたし北海道は広大で発声教室に通うにも片道2時間、3時間要する会員さんも多く居られ皆が気軽に安価な宿泊発声訓練を受ける事が出来ないものかとの思いが強くありました。費用負担は1万5千円までと考え会場を探しました。紆余曲折ありましたが、平成6年3月にやっと第1回宿泊訓練を千歳市のご厚意により千歳市青年の家支笏湖研修センターで研修生19名、付添2名、指導員10名での開催に漕ぎ着ける事が出来ました。

 当時は北海道の委託事業に成って居りませんでしたので指導員も宿泊費・交通費は全て自前での指導でした。北海道の委託事業に採択されたのはそれから3年後の平成9年でした。

 平成13年度までの研修生の年間参加者は平均約80名、付添者は約20名でtた。しかし平成14年度の年間128名、付添者47名をピークに年々減少傾向で最近は年間40名弱、付添者に至っては1名居るかどうかです。原因は色々考えられますが、まずは会員数(新規入会者)の減少があります。今年度は300名の大台を割り込み最盛期の約半分に成りました。また、電気発声器・TEシャントの普及も大きな要因です。25年前もアンプリコードは7万円、ゼルボックスは10万円で現在と値段は余り変わっていません。当然行政からの補助制度はありませんでしたので全額自己負担です。 誰でもが入手出来る時代ではありませんでした。と成ると食道発声を頑張るしか発声方法が無かったものと思われます。

 最近はどうでしょう。発声器も1割の個人負担で容易に入手出来ますし、電気発声で満足し食道発声にチャレンジする方は少数と思われます。もしこの状態が続くと宿泊訓練参加者の減少で、この20年間先輩たちが築いて来られた宿泊発声訓練の継続が危ぶまれる事態に陥ると思われますが如何でしょうか。

次号に続く。


【第33号】平成28年

 前号では北鈴会が何故宿泊発声訓練を始めようとしたのか、その経緯についてお話ししました。今号は支笏湖での宿泊発声訓練をするに至ったエピソードをお話したいと思います。

 初めのうちはなかなか、1万5千円くらいで3泊4日の研修が出来る施設を見つける事は難しく挫折感を感じました。その時、千歳の松井支部長から「土田君、うちの息子の管轄している所へ行って見るかい」とのお誘いが有りました。その正式名称は「千歳市青年の家支笏湖研修センター」でした。名前の通り千歳市内の小中学校の宿泊体験施設でした。そのすぐ隣にはフレンドシップと言う体育館を併設した同等の施設が建っていましたが、フレンドシップには食道と電気発声別に訓練の出来る教室が無かったので「千歳市青年の家支笏湖研修センター」に決めました。それで早速次の日曜日、札幌教室で会長・事務局長・会計部長などの役員皆さんに「支笏湖研修センター」のプレゼンテーションをしました。

 支笏湖開催の一番の問題は、交通の便が最悪な事でした。研修センターまで直通の公共交通が無かったのです。そこで北鈴会が取った策は指導員が最寄りのバス停まで研修生を迎えに行く事でした。研修センターから支笏湖湖畔バスターミナルまでは3キロ程ありましたが、分岐する国道に出るまでの約1・5キロは砂利道でした。

 しかし不便な事が全て悪いとは限りません。最大の利点は、日常の喧騒から離れ発声訓練に没頭出来た点だと思います。何故なら周りは、うっそうとした原生林で昼間でも薄暗く今にも熊でも出て来そうな環境だったからです。今は年間5回開催していますが、当時は年4回の開催がやっとでした。当時は今のように行政からの助成はなく指導員の旅費交通費は自分持ち、宿泊費は研修生の参加費から捻出していました。よって参加者が少ないと当然呼べる指導員の数も少なく成ります。しかし前号で触れた通り平成9年からは、先輩たちの努力のお蔭で「北海道委託事業」に採択され交通費・宿泊費の実費が支給出来る様に成り指導員の確保に目途が立ちました。

 因みに訓練風景で今と圧倒的に違うのは、同伴者(奥様)の参加数です。過去には最多で11名、平均でも5名程度は来られ一緒に健康管理などの講義にも同席し、指導員からの発声アドバイス、帰宅後の生活上での注意点など熱心にメモしていました。また、初心者への食道発声訓練で「お茶のみ法」があります。音(声)を出す為には食道に空気を取り込む必要がありますが、これが中々難しく容易に空気は入りません。

 そこでお茶(ほうじ茶。北海道では番茶)を「ごっくん」と呑込むタイミングに合わせて空気を食道に取り込み「ア」の原音を発してもらおうとする訳です。奥様たちには、その為のお茶の用意から茶碗洗い、食事の時の茶碗並べなど自発的にお手伝いして頂き本当に助かりました。最近はどうでしょう。初めて発声教室に参加される際、お一人で来られる方が散見されます。昨今障害者の自立更生が叫ばれ障害者自身にも独立心が芽生え育って意識が一段と向上して来たと言う考え方で良いのでしょうか。それなら大変めでたい事ですが……。

 32号でもお話しましたように、この宿泊訓練のシステムは仙台「立声会」で長年にわたって研鑽を重ねられて来たものです。わが北鈴会が宿泊訓練を始めるに当たり、北鈴会と仙台の両方で電気発声の指導員として教えておられた千葉指導員のノウハウとご尽力無くしては有りえ無かったと思います。また、無私の愛とボランテイア精神で参画してくれた当時の指導員の方々に感謝出来るのでは無いでしようか。

次号に続く。


【第34号】平成29年

 前号では支笏湖で宿泊発声訓練をするに至ったお話しでしたが、今号は「千歳市青年の家支笏湖研修センター」でのエピソードを話したいと思います。

 平成6年3月に記念すべき第1回目が研修生19名、付添者2名、指導員10名の総勢3.名の参加者で無事開催する事が出来ました。研修センターのスタッフさんは、千歳市教育委員会の職員4名と厨房担当2名で細部に渡り親切かつ好意的に対応してくれました。

「エピソードその1」

 春秋の開催時にはセンター周辺で採れた「うど」「ふき」「タラの芽」「あずき菜」「きのこ各種」など旬な山菜をふんだんに取り入れた食事を用意してくれ、我々の年齢に添ったご馳走に皆喜んで食していたのを思い出します。宿泊棟は、子供たちの宿泊体験用施設ですから2段ベッド4組の8人部屋です。年長者には下段を勧め若い者には、上段にと怪我には配慮したつもりでした。しかし、梯子から足を滑らせて危うく大怪我をさせそうに成った事もあり、それ以降は許す限り下段のみ使用し1部屋4名での部屋割りに心掛けました。研修用の部屋は60名程度の1室で各クラス別に分けるのが大変でしたので、電気発声の訓練は1階の食堂も利用していたと思います。そんな訳で天気の良い日はセンター周辺の原生林の中での訓練でした。研修生、指導員共に気分転換に成り今思えば楽しい時間でした。

 宿泊訓練を始めて10年間は1回当たりに平均すると研修生の参加者が約20名、指導員10名、付添者15名で合計45名の大所帯で和気あいあいと言うよりは騒然としていた感がありました。当時は各支部から研修生が沢山来られましたので、引率を兼ね支部の指導員も宿泊訓練の指導員として参加して頂きました。それが今日の北鈴会の指導レベルの底上げに大いに寄与したものと自負している所でもあります。現在の参加者数はと言いますと研修生、指導員合わせても多い時で15名、少ないと10名ほどです。会員数も当時に比べて約半分の300名を割りましたので当時を知る者としては寂しい限りで隔世の感が致します。

「エピソードその2」

 センターの庭には煉瓦ブロックで作られたバーベキュー用炉がありました、それは子供たちの体験学習の一環として用意された炉でした。平成15年第45回の訓練の時の話ですが釧路の支部長で副会長でもある濱谷さんが宿泊発声訓練に指導員として参加した時の話です。釧路沖の秋刀魚が大漁との新聞記事が目に付き、そこで私は濱谷さんに「獲れたばかりの釧路沖の秋刀魚は違うのでしはうね」と聞いて見た所「じゃ皆に食べさせるか」と言うことになりました。早速釧路に連絡してくれ宅急便で送って貰うことになりました。翌日、クロネコヤマトのクール便でドーンと2箱、研修センターに到着しました。しかし、炉と秋刀魚の準備は出来たが肝心の火を熾す炭が無い事に気が付き、有志2名が支笏湖から千歳の街まで往復2時間かけて炭を調達に行きました。

 厨房の人に50尾近く焼いて貰いましたが、これが凄い脂でまるで焚き火状態です。火柱が上がって皮は焦げて真っ黒、身は半生焼け状態でしたが、刺身でも食べられる鮮度の秋刀魚です「内臓も全部食べられるぞ」との濱谷さんの秋刀魚食し方レクチャーを受けた私は、2尾をペロッと平らげてしまいました。ただ反省点として焼き網と炭との距離をもう少し高く取ればあそこまで生焼けには成らずに遠赤外線で更に美味かったのではないかと……。濱谷さんと秋刀魚の忘れられない思い出のひとコマです。

「エピソードその3」

 支笏湖で研修を開始して10年目の平成16年9月に猛烈な風台風が北海道を直撃しました。研修センターヘの1本道を電信柱が何本もなぎ倒され通行止めに成りました。実は台風が来る前日まで第50回の訓練をやっていました。もし1日でも日程が重なっていたら幹線道路まで車を出す事が出来ず参加者22名全員が何日もセンターに足止めされた事と思います。本当に不幸中の幸いでした。そして、台風から半年後の翌年3月末をもって「千歳市青年の家支笏湖研修センター」は閉館と成ってしまいました。

次号に続く。