北海道喉頭摘出者福祉団体 北鈴会

医療大学34


喉頭観察法の変遷


北海道医療大学心理科学部言語聴覚療法学科
 教授 西澤 典子


 今年も北鈴会の指導員講習会にお招きいただきました。今回はその講演内容をまとめて書かせていただきます。

 声をつくる器官である声帯の構造については、ルネサンス期、ヴェサリウスの時代からずいぶん詳しい記述がされておりますが、生きている人間が声を出しているときに、声帯がどのようなふるまいをしているのかを観察するのは、そんなに簡単なことではありませんでした。口からのどの奥を覗いても、扁桃腺のあたりまでが見えるだけで、その先、声帯のある場所へは下へ向かって曲がっておりますから、鏡で映すなどの工夫が必要です。また、そんなに奥にある場所ですから、光で照らさないと見えません。

 生きている人間の声帯をはじめて観察したのは、マニュエル・ガルシアU世(Manuel Garcia Junior 1805-1906)という人であったと言われています。ガルシアはスペイン人で、有名な作曲家(ガルシアT世)を父に持ち、自身も声楽の先生として活躍していました。彼は、鏡を喉に入れて喉頭を映すと同時に、その鏡に凹面鏡で集めた太陽の光を当て、喉頭を明るく照らす、という工夫をして、歌手ののどを観察したといわれています。この仕組みは、現在でも耳鼻咽喉科の医師が利用している「間接喉頭鏡」です。皆さんが耳鼻科に行かれた時、「ハイ 舌を出して―」と言いながら、医師が丸い鏡(額帯鏡)を目の前に置き、柄付きの小さな鏡を喉にいれる、あれです。小さな鏡が2個あればよいので、大変便利で、今でも使われているのですが、舌を引っ張り出して、口の中に器械が入るので、「声は出せるけれどしゃべれない」という欠点があります。また、録画に残すのも、なかなか大変です。Garciaの業績は、額帯鏡の発明だけではなく、その後、発声の生理学に関する膨大な研究をまとめた教科書をのこしており、その中でも、声区(地声と裏声)の違いに関する科学的な記述は、現在の音声科学にも影響を与えています。私の専門とする音声言語医学の領域で3年に一回開催される国際学会において、もっとも大きな業績を残した人に与えられる名誉賞は「ガルシア賞」といい、彼を記念したものです。

 さて、医学が進歩するにつれて、それまで治療ができなかった悪性腫瘍を、外科手術によって摘出するというこころみがされるようになりました。この領域では、ビルロート(Theodor Billroth 1829-1894)の業績が第一にあげられます。ビルロートは1881年に世界で初めて胃がん患者の胃切除に成功したことで有名ですが、それ以前、1873年には、世界初の喉頭全摘出術に成功しています。この業績は弟子のグッセンバウアー(Carl Gussenbauer1842-1903)によって詳しく記録され、最初の喉頭全摘出手術で、すでにシャント法のもとになる術式が試みられたことがわかっています。

 ビルロートの時代になりますと、体内にあるいろいろな器官を観察し、がんの診断に役立てるという必要が出てきました。主に胃がんの診断を目的として開発されたのが、「硬性直達鏡」という内視鏡でした。「剣呑み」という大道芸があります。lmに近い長い剣を口から飲んで胃まで通すのです。これと同じように、金属の筒を患者さんに飲んでいただいて、先に電球をつけて照らせば、胃の中を見ることができます。硬性胃鏡は1853年にクスマウル(Adolf Kussmaul 1822-1902)によってはじめての実験(剣呑み芸人を使った)が成功して以来、さまざまな改良を施されて20世紀前半まで使われました。しかし、固く締まった食道と胃の境界を越えるために、患者さんの苦痛は大きく、技術的にも大変難しく、食道や胃に穿孔を作ってしまうなど、事故も多かったのです。硬性胃鏡はこの後に述べる軟性内視鏡にとってかわられますが、20mほどの短い金属の筒を声帯まで届かせて、詳しく観察をする手法(硬性直達喉頭鏡)は、がんをはじめとする多くの喉頭病変の検査、治療に、現在でも広く使われています。

 軟性内視鏡は、柔軟に曲がる器械を使って体の内部を観察するもので、硬性直達鏡に比べれば、各段に安全で患者さんの苦痛も少ないです。実用に耐える最初の器械は、第二次世界大戦直後の日本で開発されました。東京大学病院分院の外科に所属していた宇治達郎という医師が、オリンパス光学の技師であった杉浦睦夫、深海正治とともに開発した「胃カメラ」です。これは、ゴムホースの先に電球と小さなカメラを取り付け、糸を用いて手元で操作しながら胃壁を撮影するというものでした。敗戦直後ですから、物資は限られています。すべてが手作りで、市販フィルムを暗室で細切りにし、操作用の糸の材質を求めて、三味線の糸まで試したことが記録されています。釜口村昭¨光る壁画・新潮文庫 1984)宇治先生は、めでたくこの研究で学位を取得されました。 一方 オリンパス、町田製作所など日本の技術者たちは、さらに使いやすく安全な内視鏡を求めて開発を続け、1963年には光ファイバーの繊維を束にして直接画像を眼で確認しながら観察のできる内視鏡(ファイバースコープ)を、欧米とは独自に開発して実用化しました。そのころ、1960年には欧米でファイバースコープの利用が始まっていたのですが、敗戦国日本への輸出は禁止されていたのです。その後、オリンパス光学は内視鏡の分野で世界をリードする企業となっています。

内視鏡の歴史は、こののち、鼻から挿入できる細身のファイパースコープ、さらに先端にカメラのついた電子内視鏡へとつながっていくのですが、長くなりますので、次回の宿題にしましょう。私も講演のために勉強させていただきまして、いろいろ知るところが多く、もう少し文献を読み込んで、来年にまとめさせていただきたいと思います。