北海道喉頭摘出者福祉団体 北鈴会

札幌医大29


「表と裏がはっきりしなくなる」

札幌医科大学医学部耳鼻咽喉科
教授 氷見 徹夫



 北鈴会の皆様,いかがお過ごしでしょう.松永雅晴会長の下,さらに活発な活動をなされていることと拝察申し上げます.また,新しい会員の方々をご指導いただいております皆様にも,この場をお借りして深く感謝申し上げます。

物事や人物を評価するのに,「どうもはっきりしないやつだ」とか「白黒をはっきりさせてほしい」など,明確でない物事や人柄はあまり評判がよろしくないことが多いのではないでしょうか。日本の文化は,それでも「曖昧模糊」としたところが「わび」「さび」の境地をもたらしているのだとすると,漠然として,物事の本質や実体が,ぼんやりして何かはっきりしないこと自体は,あながち悪いことではないという意見もあるでしょう。

ただ,ものによっては「外と内」「上と下」「表と裏」などがキチンの決まっていないと困るものはたくさんあります。私たちの体の細胞を見てみると,このような「外と内」「表と裏」を区切っている細胞があります。それが「上皮細胞」と呼ばれているものです、わかりやすい上皮細胞は皮膚の細胞で,皮膚の表面を触るときは,皮膚の上皮細胞の「表」を触っているのです。さらに,腸や鼻や喉頭・気管の粘膜の表面もこの表裏のはっきりした「上皮細胞」でおおわれています。

話が少し、くどくなりましたが,「上皮細胞」と呼ばれている細胞は,体の細胞の中で最も「外と内」「上と下」「表と裏」がはっきりしている細胞なのです。細胞の向きがはっきりしている性質を,「細胞が極性を持つ」と呼んでいます。白血球やリンパ球のようにあちらこちらを動く細胞は,この極性を持たない(正確には少ない)細胞になります。

では,なぜそのような細胞の向き,「極性」が必要なのでしょうか.たとえば食事の後,小腸の上皮細胞は表面から栄養素を取り込んで血管に吸収しますが,表面から吸収するためには,小腸の上皮細胞の向きが決まっていなければ腸の表面から体の中へ栄養素を吸収することができません.このように,上皮細胞の極性は体の大事な機能を維持するために重要な性質なのです。

ところで,「癌」とは上皮細胞が癌化して増殖し塊となったものです。がんの発生のメカニズムにはいろいろな要因がありますが,上皮細胞の向き,すなわち「細胞の極性」が不安定になって,本来は整然と並んでいるはずの上皮細胞がばらばらになることが一つの要因と考えられています。喉頭も上皮細胞でおおわれていますが,喉頭がんの細胞も本来の上皮細胞の持つ「極性」が失われている性質を持つことが知られています。がん細胞の「極性」を取り戻すことで,がんの治療に結び付けようとするアイデアは以前からありましたが,まだ実際の臨床にまでは到達していません。

毎日を規則正しく,きちんきちんと生活することだけが人生の幸福に結びつくとは思いませんが,少なくとも,私たちの体を作っている「上皮細胞」に関しては,新たにがんが起きないために,「極性」という規則正しい性格を持ち続けていてほしいものです。